占い屋◎雪の石

タロット&西洋占星術をしております。 日々の中でほろっと出てくることなどを書き留めてみようかと思います。

今週のカード

11月第2週(11月9日〜11月15日)

数字の7

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分かたれていたものが再び出会った時

ふたつは溶け合い 

それまでの自分の孤独を知る



12サインごとの今週の占いもアップしました。あわせてご覧ください。 こちらからどうぞ。




  1. 2009/11/07(土) 10:20:31|
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魔法の杖の石・その後

ところで、魔法の杖の石のお話です。

今回、以前に購入された方から後日談をいただきましたので、こちらのページにお二人分をアップさせていただきました(^^)

今回のお二人は、たまたまですが、お二人とも「書く」ということがライフワークのひとつになっているところがあり、その「書く」という「核」がどんどん引き絞られて凝固しているような、そんなプロセスの中におられるという印象を受けました。

中心核をしっかりと稼働させずに別のことをやっている場合、中心ではない別の場所にエネルギーが拡散されていて、時にはあちこちに散らばっている、というようなこともあります。それらの相乗効果で人生が回っている形で、こっちがダメでもあっち、みたいに保険をかけているような安心感」があったりもしますし、それはそれで思わぬ展開があったりして面白いこともあったりするのですが、本人が「中心核を全開にしてやっていきたい」と思っている場合、エネルギーの浪費にしかなりません。

けれども、人生の最初のうちから中心核が決まっていて、そこに絞った生き方のできる人は少なくはないけれども、そう多くもないのでは?と思います。中心核での活動が、社会的・経済的にも安泰であったり、周囲からも理解されているものであれば、本人の意識もそこに向かうことはたやすいですが、そうでない場合、そこに絞って失敗したらどうしよう?といった不安から、別の道を探そうとしたり、自ら諦めようとしたりすることもあるでしょうし、逆に、もっと自分を試してみたいという気持ちから、敢えて中心ではない場所での活動をいろいろやってみる、ということもあるからです。

しかし、そういった場合も、結局は中心核に戻っていくことになるので、人生の途中で必ず、拡散させていた活動ポイントを徐々に縮小し、中心核の一点へと移動することになります。

それは、保険を失うことであったり、抱いていた夢を諦めるということになるわけで、とても容易なことではありません。何の安全装置もないのに、とにかくビルの屋上から飛び降りろ、後のことは飛んでからでいいから、と言われるようなもので、自分の将来について考えれば考えるほど、不安が増すことになったりもします。

けれども、先が見えない不安以上に、「中心核に戻りたい」という思いが高まり、それは強い焦燥感となって本人を苛みます。現状を失いたくないという不安と、このまま現状維持すれば人生自体を失いそうだという怖れが闘うことになるわけで、非常にグルグル巻きの葛藤が続いたりもします。

ですが、腹をくくり、中心核に飛び込んでしまえば、思っていたような悪い展開は起こらず、かえって順調で穏やかな流れが訪れたりもするのです。それまでは、暗い激流の滝壺のようにしか見えなかった道が、静かで豊かな大河のようになるのです。

中心核ではない場所で生きていた時も、「ここはなんかちがう」と気づくまでは、同じように穏やかな大河の中にいたのです。けれどもそれが「ここはなんかちがう」と気づいた瞬間、目の前に広がるのは静かな流れではなくなり、そこに近づくのは危険だと思えるような暗い激流に変わるのだと思います。

変化とはそういうものです。あっちとこっち、その「ポイント上」にはたいした違いはないのかもしれません。けれども、こっちからあっちへ移るには大きなエネルギーが必要だからです。その移動エネルギーとして、本人の「確固たる決意」や「覚悟」というものが必要になる。ただそれだけのことだったりして…と思ったりします。

そして、そういうエネルギーを自ら発して辿り着いた先にあるのは、「地道に取り組み続ける」という地味で退屈で面倒くさい作業だったりして、思っているような華やかな世界ではなかったりもします。けれどもそこが中心核である場合、人生のすべてのエネルギーがそこに向かうわけですから、真面目に向き合い、磨き続けた場合の飛躍と成果は、並みならぬものになる、というわけです。

それが、中心核(=ライフワーク)と、そうでない場所との違いだと思います。分散された場所での計算式が「足し算」だとすると、中心核は「掛け算」という感じですね。数式に数値をあてはめるという部分=日々の作業自体はほとんど同じようなものですが、演算して答えを出した時、桁違いの結果が出る、ということです。

中心核で生きようとする時には、そういった「結果」よりも、「やりたいようにやる」というプロセスを重視していることが多いようですが、人生のすべてを集結させた結果、どのような数値が出されるか、というのは、言ってみれば「自分の人生を数値としてみる」ということですから、それはとてもやりがいのあることですし、達成感と満足感が大きくて当たり前だと思います。

中心核へ戻ろうと思い始めた時に、魔法の杖の石を持ってみたいと思う方が多いような気がします。こっちからあっちへ移動することはとりあえず決めたけど、実際に飛ぶ勇気はまだ出ない、という迷いの真っただ中にいる時に、その迷いをふっ切ってくれる力、あるいは自分を後押ししてくれる力が欲しくなるというのは、とても自然なことだと思います。

石を持つことで「これで大丈夫」と安心感を感じて即座に飛べる人もいるし、それでもまだ不安な人は、ゆっくりと時間をかけながら勇気を奮いたたせたり、あるいは足元がどんどん崩れていくような状況になって「もう飛ばざるを得ない」という形で、飛ばされたようにして飛ぶ、という人もいると思います。

いずれにしても飛べればいいのですが、「自分をどうやって飛ばすか」という「飛ばし方」に、その石の性質と、本人の性格や生き方の姿勢が出るのかな、と最近では思います。状況が激しく揺れ動く人が必ずしも「それまでツケをため込んでいた」と決まっているわけではなく、「自分自身の飛ばし方」の好みというもので、現象の出方が変わってくるのではないか?と思ったりします。

何事もスムーズで穏やかに運ぶ方が「理性」は喜びますが、感情や魂は必ずしもそうではなかったりするからです。


  1. 2009/11/05(木) 09:01:06|
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真の自立

さて今回は、「クラッククオーツのインクルージョンが消えた体験」のお話です。

この方と私は、個人的に古い知り合いでして、育った環境や親御さんとの関係など、ある程度つっこんだところまで以前から知っていたということと、石を(ブレスレット)をお作りしてからのち、何度もメールでのやりとりを繰り返す中で、その人本人が地道な自己洞察を行った結果、非常に深い癒しがもたらされることになりました。

最初のお断りしておきますが、石を持てば必ずこのようになれるということではありませんし、雪の石では石に関しては通常、石からのメッセージをお届けする以外の、カウンセリング的なセッションは行っておりませんので、ご了承くださいね。



この方は、母親に対して抑圧的な確執があると自覚しておられて、過干渉気味な母親にあれこれ口出しをされたくないという気持ちから、就職後、反対を押し切って一人暮らしを始め、その後フリーのデザイナーとして頑張ってこられました。非常に仕事熱心で男勝りな頼れる人、といった印象の方で、後輩や友人からの信頼も厚く姉御肌なタイプでしたが、その半面、他人に厳しすぎる面や、必要以上に一人で頑張りすぎるといった点があり、本人もそれを気にしているようでした。

常に仕事優先でバリバリと働き、それで余計に仕事が面白くなって没頭するという感じで、結婚に対しては「まあいつか、できたらいいかな」というスタンスで来ていたのですが、ブレスレットをお作りした直後あたりに運命的な出会いがあり、それによって「自分がなぜ、今まで結婚をせずにきたのか」ということが明らかになったとのことです。

そして、そのことから「自分がいかに、自分をだまして生きてきたか」というようなことが次々にわかり、自立しているつもりで全くそうではなかったこと、自分が親(特に母親)の呪縛の中で生きてきたこと、さらにその呪縛を周囲の人たちに向け連鎖させてしまっていたことなどを自覚し、大きな衝撃を受けたようです。

クラッククオーツは「自立」に関する石です。自立とは、自分の足でしっかりと立ち、自分の身に起きること、感じることのすべてのを「自分が受け止めるべきもの」と理解しているということです。真の自立の中には「どうして私がこんなことを」というような、「私のせいじゃないのに、こんな不当なことをされている」といった不平や憤りはありません。

そして「負の連鎖」みたいなものは、自立の対極にある依存の、最悪な形です。「私だって辛かった、でもそれは私のせいじゃない、だけど責任を取ってもらうことができなかった、だからオマエで我慢しとくわ」と、弱者に不平や憤りをぶつけ、「こんなに辛い私なのだから、被害者の私なのだから、何をしたって許されるはずなんだから」という被害者意識を水戸黄門の印籠のように振りかざして、無関係な相手を自分の苦しみに巻き込むということなのです。

この方は、そういう「負の連鎖」というものを、自分がそうとは気付かずにずっと行ってきたこと、それを行っているということを自分自身に対しても実に巧妙にごまかし、自分をだましてきたことなどを実感し、それによって母親への感情的な執着が消えたとも言っておられました。

すべては、この方の実感、「そうだったにちがいない」という思いからのものですが、それによって内面的な症状、感情面での攻撃性が実際に消えたという点で、その実感は真実であったのではないかと思います。

この方の個人的な体験ですが、他人との関係が築きにくい、適切な距離が取れない、嫉妬や憎悪など、マイナス感情にとらわれて他人を気にしすぎる方などにとって、何らかの参考になるような気がして、今回、当ブログにてご紹介させていただく旨、了解をいただきました。

それでは、けっこう長くなりますので「続きを読む」に畳んでみました。↓↓からお入りください。


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  1. 2009/11/04(水) 09:49:45|
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11月の石

そうこうするうちに11月ですね!

年を取ると本当に月日の経つのが早くてびっくりです。ついこの間10月になったばかりだと思ったんだけどな〜…ってなことを、月末になると思います。

さて、そんな11月の石は「アメジスト」です。

この石は、宝石としてもパワーストーンとしても鉱物としても、とてもポピュラーで人気がありますよね。アメシスト、という英語の発音に忠実な?表記も見かけますが、とりあえず雪の石ではアメジストで統一しております。アメシストの方が正しいとか、なんか違いがあるのかもしれませんがよくわかりません。響きとしては、アメシストの方がちょびっと高貴なイメージです。個人的な勝手なイメージですが(^^;濃い紫色が葡萄酒を連想させるために、お酒の神様バッカスにちなんだ「バッカス・ストーン」という別名もあるようです。

ショップでの新作アップは、本日21時頃からの予定です(^^)

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【アメジスト】(和名:紫水晶)

色:紫色、青紫色
モース硬度:7
主な産地:ブラジル、ウルグアイ、アメリカ、インド他

シトリンやスモーキークオーツと同じ石で、放射線などの関係で違う色になるみたいですね。アメジストの中でも、色の濃淡や色合いによって「ラベンダーアメジスト」とか「ピンクアメジスト」という区別もあり、緑色のグリーンアメジストも見かけます。どれも繊細で美しいです。

宝石として研磨されたものは非常に高貴で気高い印象を持ち、鉱物として標本などにされるものは荒々しいエネルギーを持っていて、どちらも同じ石なのに全く違う表情になっているのがとても面白いです。まあたいてい、研磨されたジュエリーと原石は、似ても似つかない風合いであるのは珍しくもありませんが、アメジストの場合はその差が激しく、陰と陽、深窓の令嬢と女戦士みたいな対比があるような気もします。

10天体では海王星に関連する石ですが、海王星の特徴である「幅広さと多面性」みたいなものをよく表している石だと思います。

特に、女性性が持つ様々な側面を併せ持っているような気がしますね。女性性の石はもうひとつ、金星に関わるローズクオーツがありますが、こちらは「愛される、という形の女性らしさ」を主に担当しています。そしてアメジストは「愛する、という形の女性らしさ」であるように思います。女性性というものは、金星の「愛らしさ・可愛らしさ」と、海王星の「優しさ・思いの深さ」に大きく二分することができるんじゃないかなーと思います。どちらも10天体の中で見れば受動的な性質になりますが、女性性の中で見れば、海王星は積極的で能動的な性質といえます。



幅広さと多面性、ですが、「女性性」というものも実に多くの面を持っています。その中で海王星は、優しさや慈愛、受け入れる力をあらわしますが、一言で「優しさ」といっても、それもまた様々な形があり、局所的に取り出して見るとまったく対照的でさえあったりもします。

たとえば、親が子に対する場合でも、なんでも言うとおりに願いを叶えてやって、いつも満足させてあげることは優しさであり、時には虐待です。逆に厳しく突き放し、子どもに嫌な思いや不自由をさせることも優しさだったりしますよね。真綿のような柔らかいものでも、首をしめて相手を殺すことができるし、イバラのような鋭い危険なものも、使いようによってはその人を鍛えたり、守ってくれる優しい力になったりもするのです。

アメジストはこういった、実に当たり前なことを思い出させてくれる石だと思います。とても繊細なエネルギーを持つ石で、触れていると守られているような気がしたり、気持ちが落ち着いたりもしますが、同時に、ふわふわと甘いだけの肯定や、慰めの言葉だけが「優しさ」ではないということを、さりげなく気づかせてくれる部分があると思います。

その「優しさ」が、本当に相手のためを思って出てきた気持ちなのか、自分のエゴから生まれたのなのか、というところをとても厳しく冷静に見ているような気がします。

アメジストは、霊感やインスピレーションの石としても有名ですが、その本質は繊細で鋭敏な感性です。本物と偽物を見分ける目、とでもいうのでしょうか。幽霊が見える、わかる、というような霊感も、「本来、ここ(現世)にいるべきでないものが混じっている、ということを見逃さない感性」ということだと思うのです。

本来、ここ(現世)に生きている私たちは、ここ(現世)のものだけが見えていればいいわけで、あの世の情報などは逆に邪魔なノイズです。そのようなものが現世での情報に被ってバーバー放送されてしまうと、本当に大切なものが聞き取りにくいし、どれがどっちの世界の情報かの区別がつけられないと混乱の極みでしかありません。だから、見えない・聞こえない・わからない、というのが普通であり、余計なものから遮断され、守られているともいえます。

けれども、感性のアンテナというものが自分の身の回りや社会だけにとどまらずに広がっていくこともあります。芸術家や企業家、発明家など、固定観念や視野の限界を破って何かを得たい、新しい情報や刺激がほしい、と強く求めるタイプの人は、その強い欲求によってアンテナが磨かれ、時空を超えたところにまで伸ばされていくこともあると思います。こういう人たちのアンテナは、この世の壁をつきやぶってあの世にまで達しても、その目的が非常に明確なため、「ヒントになるものだけ」を拾うことになり、幽霊だのおかしな宇宙生命体だののデタラメをうっかり拾ってしまうようなことはないようです。

海王星が持つ意味の一つに、嘘・偽善・ペテンなどというものもありますが、真偽を見定める目がないものが海王星の世界に首を突っ込むと、それはただ、恰好の餌食となって騙される・担がれる、という結果になるだけだ、ということなのかもしれません。霊感があるというような人も、情報のノイズの中にいても自分を見失わないでいること、必要なものとそうでないものの区別がつき、情報の取捨選択を自分でできる、ということが大切だと思います。

しょーもない偽物を気づかずにつかまされる時って、経験値の低さなどもあるのでしょうけれども、自分自身がしょーもない欲によって、目が濁っているというか、気持ちが濁っている時なのかもしれないですね。占い師は自分のことは占えない、魔女は恋をすると魔法が使えなくなる、みたいな話がありますが、そういうのも、自分の運命や、好きな人との未来に関しては、私利私欲(どうしてもこうなってほしい、こうじゃなきゃ嫌だ)みたいな欲があり、それに囚われて気持ちが濁ってしまうからではないかと思います。

アメジストは、そういう気持ちの濁りを静かに指摘してくれる石だと思いますね。霊感やインスピレーションを強める石でもありますが、同時に、その人が、自分の欲や弱さによってしょーもないものに振り回されているような時には、不必要なものに対して膜を張って守ってくれたり、気持ちがそちらに向き過ぎないようにしてくれる部分もあると思います。

霊感や直感も、それを持つ人にとっては能力のひとつで、それを使って何かをする、人生を豊かにしていくべきものであって、それに引きずられたり、ただ怯える、あるいは逆に優越感に浸る、とかいうのであれば宝の持ち腐れですし、むしろない方がいいですよね。けれども、持っている以上、それは「自覚して使う」というのが正しいわけで、アメジストは「本物であれば、正しく使われるべきだ」と思っている節があり、その人の霊感が気のせい(思い込み)ではない場合は、その人の心の準備が整うまで、守ってくれる面があると思います。

霊感があります!とか言って、実際には人気(ひとけ)のない寂れた場所や、神社や廃屋など、その場の雰囲気が持つ「薄暗さ」や「不気味さ」を、霊のせいだ!霊がいるからだ!と決めつけて、怖い!=ってことは霊がいる=ということを感じるアタシは霊感があるってことだ!という思考になっている人も、たまにいますので。アンタが感じているものは、生理的な気持ち悪さ、落ち着かなさであって、幽霊の仕業ではありませんから安心してね☆ってことです。

ま、幽霊なんてしょせん死んでる人たちですから、ひとつの感情にとらわれて鬼のようになっていても、生きてる人間の念の強さには叶わない部分があるので、放っておけばいいのです。ライフワークとして浄霊や除霊をしなければならない能力者の人たちは別ですが、普通の人間である私たちは、自分が生きることに一所懸命になっていれば、その輝きによって、死んでるくせに死んでないつもりの幽霊たちはまぶしくて近寄ることができないからです。

こういうのは幽霊云々だけじゃなく、生きている者同士でも同じ法則があって、引き寄せの法則とか類友の法則、みたいなことですね。夢や目標を持って地道に努力をしている人は自然と輝きが増し、それによってチャンスや協力者を自然に得ていくし、妬まれたり足を引っ張られたりしても、逆にそれが本人の頑張りを浮き彫りにしたりすると思うのです。そして、頑張っていても自分に集中しきれずに、自分と他人を比較してたり、他人をどうこう思ってしまう人は、それなりに妬みや嫉みにひきずられてしまったりするのでしょう。

あら?どうしてこんな話になっているんですかね。まあいいか。とりあえず、今日はこのへんで勘弁しといたるわ、って感じです。オチがなくてすみません。




  1. 2009/10/31(土) 09:01:18|
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今週のカード

11月第1週(11月2日〜11月8日)

数字の9

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もっとも伸びやかで美しいのは常に前夜
何かが形になり切る一歩手前の 最後の輝き



12サインごとの今週の占いもアップしました。あわせてご覧ください。 こちらからどうぞ。




  1. 2009/10/31(土) 07:18:43|
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優しい気持ち(2)

まあでもあれですね、先日の受け取る・拒絶するみたいな話ですけど、「与えたくない」というよりも、「受け取るのが怖い」ってことかもしれないですね。

「与える」というアクションが引き起こす、「受け取る」という相手からのリアクションを怖れているのかもしれません。自分のやることっていうのはコントロールできるし、その結果や成り行きもある程度は予測可能ですが、他人のやることって未知そのものだし、自分のアクションに対してどういうリアクションを投げてくるかは予測不可能ですから。他人からのリアクションによって、過去に傷つけられ、現在もなお苦しんでいる人は、リアクション=自分を傷つけるものという思い込みを持ち、脊髄反射的に避けようとしているのかもしれないなと思います。

目の前の相手が差し出してくれたものが「優しさ」であったとしても、それ自体を受け取ることに何の害も痛みもないとわかっていても、それを受け取ることによって生じる自分のアクションと、その次にやってくるリアクションを怖れて、受け取ることができないのかもしれません。

まだ受け取っていないものが引き起こす、未来のアクションと、さらにその先にある遠い未来のリアクションを恐れて、自分の現在を閉ざすというのは愚かなことですが、それが唯一の「自分を守るすべ」なのだとしたら、時が満ちるまでゆっくりと、拒絶と孤独の中で過ごすしかないのでしょう。

他人に対して意見をしたがる人、あるいは心の中で人を裁き、どうこう思うことの多い人は、未知を恐れる臆病者なのだと思います。自分の正しさに人を巻き込んで相手をコントロールし、予測不可能な未知のリアクションを防ぐことができるからです。自分と同じ考えに基づいての言動は、シュミレーションが簡単ですから。

そういうふうに簡単だってことは、何も考えなくてもいいということで、つまりその人は、他人のことなどちっとも考えていないし、思いやろうともしていない怠け者だと言えるとも思います。自分に譲れない正しさがあるように、相手にも相手の状況や人生哲学、やり方というものがあるのだというあたりに想像力が働かないというか、働かせる気がない、労力を費やしたくないということでもあるんじゃないかなーと思います。

自分のことだけ考えているというのは、楽でいいですよ。自分というのは他人ほど、わずらわしくありませんから。その代り、驚きや喜び、奇跡のようなものも何一つ起こりませんけどね。


  1. 2009/10/26(月) 07:01:19|
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優しい気持ち

みなさまこんにちは。

本日は25日、お勤めの方たちの多くはお給料日ですね。とはいえ今月は日曜日ですから、すでに金曜日に振り込まれていたりするのでしょうか。

お給料が入ると嬉しいですよね(^^)私も会社勤めをしていた頃は毎月心待ちにしていました。その後、派遣社員で働き始めると、お給料の振込みが2週間ごとになって、単に1ヶ月分が分割されているだけなのですが、単純な性格ゆえ、嬉しい日が月に2回も!(*^^*)になっていたりしました。

それはともかく、お給料に限らず、お金をもらうと嬉しいですよね。でもその嬉しさって「何に使おうかな?」っていうワクワク感だと思うのです。つまり、本当の喜びは、受け取ることじゃなくて、支払うこと、お金を手放すことにあるんだってことです。

私はかつて、幸せになりたいな〜…と強く思っていた時期がありまして、その頃は、お金も含めて、自分は他の人に比べて、十分には与えられてない…と感じていたと思います。幸せとか豊かさを「たくさんのものを持つ」「たくさんのものを受け取る」ということだと思っていました。

でも「豊かさ」とは、お給料を手にした時の「何に使おうかな?」というワクワクと、何かを買ってお金を払うというところにあるのだと気づいた時、何かを受け取るというのは、何かを与えるということであり、このふたつの言葉は「違う形の同じもの」なのだと思ったのです。

そして、私は受け取ることばかりを求めていて、自分が持っているものを与えるということにはほとんど無関心だったということにも気づき、なんかこう…、私はケチだったんだな、と理解しました。

自分の手元にあるものを喜んで支払うことこそが、豊かさというものであり、幸せになれる行為なわけです。もちろんそれがお金である場合、十分な手持ちがなければ不可能なこともあるし、明日や未来のことを考えるとどうしても「使わずに溜め込んでおきたい」と思うことも普通です。

でも、人の心の中に「お金」というものは存在しませんよね。お金で買えない幸せ、プライスレスというものは、目に見えない何かを支払っているということだし、それはたとえば、相手を好きでいることとか、肯定的で優しい気持ちを向けるとか、いわゆる「愛する」ということです。

もっと単純にいえば「笑顔」ですかね。ちょっとした微笑み、みたいな。

これってタダでしょう。微笑みなんて、無尽蔵に湧いてきますよ。相手に対して優しい気持ちでいるならば。

優しい気持ちって、自分が満たされていてゆとりがないと難しかったりするんだけど、優しさって「そういうもの」じゃなくて、ゆとりがなくなってくると、「自分の中の歪み=人や社会に対する、無自覚な深い不信」が出てくるだけなんじゃないかなーと思います。それで、不信感で作られた色眼鏡で相手のことを見てしまい、頑なで意地悪な気持ちにしかなれなくなっていく。



愛情とか優しさは、感情エネルギーで、エネルギーというものは循環する性質があります。それは水であり空気であり、詰まって動きが止まれば腐ってしまう命です。だから常に動きつづけ、まわり続けなければならない。

人との関わりの中で、さまざまな感情のやり取りがあるけれど、実際に循環しているものは、愛情や優しさ、理解(理解を示す)というものたちです。こうした感情は、相手に手渡し、注ぐことで大きくなり、勢いよく循環し、やがて自分の身にも「より豊かなエネルギー」となって戻ってきます。循環というのは、出すものと受け取るものの間に、相互利益がある関係、ということです。

そして、愛情や優しさとは反対の、意地悪で冷たい感情というものもあります。相手のことを決めつけて悪く取る、みたいなことって、実際の行為としては「拒絶」なんですよね。相手のありのままを理解しようとせず、相手の本意を受け取ろうとしない、ってことです。なぜそうなってしまうかといえば、相手が自分の思い通りでないと、自分が傷つくからかもしれません。

相手の言動からその本意を推測し、「怠け者だ」「私をバカにしているんだ」「やる気がないんだ」といった否定的な気持ちになる=相手を悪く取る、ということの方がよっぽど、自分を傷つける行為だと思うのですが、こういう気持ちになってしまう時、人は無自覚な歪みや不信に支配されていて、その不信が証明されることで、自分の正しさを守ろうとしているんだと思うんです。

不信というのは、傷つけられた経験による「その人なりの哲学」であり、人生とは、人とは、他人とはこういうものだ、という法則のようなものです(ただし、中身は歪んでいる)。

不信は、その人にとって痛ましい記憶でありながら、同時に、これまでのその人を守り、支えてきた六法全書のようなものなので、誰かに対してそれを適応した場合、それを取り消す、間違いだと認めることは、その人自身を根本から否定することにもなり、耐えられない恐怖と痛みがある(と本人が思いこんでいるだけ)のです。だから、不信とか、悪く取る、という気持ちを捨てることが最善策なのは明らかでも、そこにしがみつき、冷たく心を閉ざしていることを選んでしまうのでしょうね。

そしてさらには、心を閉ざしている自分を正当化するために、あれこれと涙ぐましい言い訳や努力を行い理論武装するのです。拒絶することをやめて、相手の本意を素直に受け取れば、人生はもっとシンプルで微笑みにあふれたものになるのにな〜と思ったりします。

相手の本意が実際に軽蔑や悪意であったなら、それが事実として明らかになった時に堂々と怒ればいいし、つきあうに値しない相手というのも存在するので、「これはだめだ」と判断してから付き合いをやめればいいんですよね。とはいえ、現実はいろいろとややこしいから、そんな単純なものじゃないんだけど、なんていうんでしょうかね、不信や歪みによる「記憶」を持ち込まずに相手(=現実)を見ることができれば、そこに「拒絶」がないために、心が閉ざされることもなく、自分を正当化する必要もないので、変な労力が一切いらなくなるんですよね。だから、無駄がなくなるという意味でとても楽になるし、流れもシンプルになる。

正当化するというのは、本筋から外れて伸び広がる枝葉のようなもので、そこに栄養が流れることで幹は痩せてしまうし、ごちゃごちゃと絡まり合って全体を複雑にするだけの行為なんですよね。でも、自分が正当化している、ということに気づかないうちは、そういう枝葉を「自分の個性」だとか思ってたりして、いや〜…痛ましいというか、涙ぐましいというか、ズレてる!って感じですけど、まわりにはどうすることもできないんですよね。自分で自覚してやめるしかない。

流れや循環がちゃんと健全な状態で行われているかどうかって、自分が楽か、しんどいか、っていうことで割と簡単に判断がつくような気がします。

他人を悪く思ったり、冷たく高圧的な目で見ることと、その人の現状に理解を示す、微笑みを与える、みたいなことと、どっちが楽か?ってことです。自分にとって楽になれる方が、自分にとって健全な流れだってことです。

他人を悪く取り、そう決めつけて思いこむというのは、自分の中の不信や歪みを証明するであり、自分の正しさを証明することなので、やってる時はとても気持ちがいいし、安心します。自分はこれでいいと自信が持てたり、強くなれた気持ちになったりする。

でも同時に、心はどんどん固く冷たくなっていくし、とてつもないしんどさがあるんですよね。少なくとも私はそうでした。それで、しんどさがないこと、楽になれることって何だろう?と考えた時、ただそれは「相手の言動に対して、何も決めつけない」みたいなことだったんですよね。そしてこれは、相手(あるいは人というものや社会全般)への不信がなければ普通にできることなんだろうな、と思いました。

優しくなれない時って、怖いんですよね。これ以上傷つくことを怖れている。ただそれだけなんだと思います。

それに気がつくためには、「自分が怖がっている」ということに気づく必要がありますが、それ以上に「思っている以上に、自分は深く傷ついている、しかもそれを今もなお、リアルタイムで苦しみ続けている」ということを受け入れる必要があるんじゃないかなーと思います。

心の冷たさって、痩せ我慢だったりするんですよね。私は平気、たしかに昔傷ついたことがあったけど、それもすっかり乗り越えて強くなったし、大丈夫〜♪とか思ってて、実はそうじゃないってことです。

もしも本当に乗り越えていて本当に平気なら、拒絶する必要なんてないのですから。



  1. 2009/10/25(日) 07:03:11|
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